すいせい

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デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです

 

最近塗装することの意味を考えている。塗装とはなにか?

 

例えば木材で机をつくる場合に、とてもいい材質の無垢板を入手できたとしたら、
それを塗装して仕上げようという人はあまり多くないだろう。
表面を保護するために透明なニスやウレタンなどを塗ることはあるだろうが
分厚くペンキを塗ってしまうのはもったいないと感じてしまう。

 

ではベニヤ板や集成材などが材料だったらどうだろう。
材質の良さを積極的に見せる必要がなくなったぶん、塗装して仕上げる割合がグッと上がる気がする。

 

あるいはRC造のコンクリートの打ちっぱなしの壁があったとしたら、
素材感を活かすために塗装しないひとが多いのではないだろうか。
いっぽう合板が相手だとすると、ペンキなどの塗料で仕上げることに抵抗は少ないと思われる。

 

つまり塗装するひとつの目的に、材質が劣っていることを見えなくする意識があると考えられる。
保護する意味もあるだろうが、色や質感に影響が少ない透明な塗料を選ぶこともできるので、
このケースでは隠してしまうことが主目的だろう。

 

もちろん置かれる環境とバランスを取るために、初めから机を白くしたい場合もある。

 

バランスを取るために、家具や壁などの色をコントロールすることは
ごく一般的に行われていることであり、こちらを目的として塗装することのほうが多いかもしれない。
しかし塗装すると、色の調和は良くなるかもしれないが、
素材感は薄くなるので、木材が木材である必要性も薄くなり、代替可能になってくる。
3Dプリンターなどを使って、樹脂で同じ形状の机を制作し、塗装してしまえばパッと見はわからないだろうし、
硬さや密度感などを近づければ、持ってみてもわからないかもしれない。

 

塗装すると色のバランスや保護面でのメリットがあるのは確かだが
木材や金属や石などの素材そのものの色には敵わないだろうと考えている。
少なくとも自分は、どんなに優れた塗料があったとしても、
黒い石材を黒く塗装しようとは思わないし、白い漆喰の壁を白く塗ろうとは思わない。
塗装するのは、それぞれの色が素材として用いることができない場合に限られる。

 

メンテナンスから言うと大変なのに、なぜ高級寿司屋のカウンターが檜の白木なのかよく考える。
おそらく日本人の意識の根底に素材を尊ぶ感覚があり、
かけがえがのない価値のありかたと結びついているからではないだろうか。

 

ちょっと高めの寿司屋のカウンターに座り、寿司を握ってもらうのは、
ハレの日の特別なことなので、当然その価値に合うサービスを求める。
ペンキが塗られたカウンターは日本人を喜ばせないし、ましてやなにも塗られていない分厚い一枚板を欲する。
世界的には模様を掘ったり、色を塗ることのほうを尊ぶ国のほうが多いので
(つまりわかりやすく仕事がされているのを喜ぶので)、このことは日本独特の珍しい感覚だと思われる。

 

考えてみれば、握り寿司も、極力手を加えずに素材をどう活かすかという、
とても日本的な視点でつくられる料理の代表格である。

 

寿司屋の白木のカウンターは、なぜ塗装しないといけないのかという問いを投げ掛けている。

 

 

 

 

※日本古来の漆が塗装かどうかは、なかなか難しい問題だと思う。
英語だとLacquer(ラッカー)と訳されるが、それはちょっと日本人の感覚からすると乱暴に思ってしまう。
おそらく塗料でもあるが素材という側面も持っているからではないだろうか。
何層にも重ねて塗ることで厚みが出るので、素材として認識しているのかもしれない。

 

 

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詩についてはよくわからないけれど、北園のデザイン、写真には中毒性があるように思える。

 

北園とは昭和初期から50年代にかけて活躍したモダニスト北園克衛のことである。
その活動範囲は前衛詩を主軸として写真、デザイン、映像と幅広く、ほとんどを独学で習得し、76歳で没するまで旺盛な創作活動を行った。

 

プロフェッショナルでもない一人のモダニストの作品が時代に埋もれることなく、
現代でも輝き続けているのはとても不思議なことだ。(日本歯科医学専門学校の図書館に職を得て、亡くなるまで勤務していた)

 

いや、北園の前ではもはやプロ、アマチュアでの線引きは意味がないかもしれない。
なにしろその実力はプロの線をまたぐことができたのではなく、プロの中でもトップレベルの域で常に活動していたのだから。

 

 

 

 

北園の作品群を見渡すとそこにしっかりと確立された世界観をみることができる。

 

装丁について言えば、おおよそ「文字+何かひとつの要素」で構成されていて、
余白を生かした緊張感のあるデザインからは、北園とモダニズムの出会いがいかに幸福であったのかよくわかる。
日本的な淡白な美意識とモダニズムの邂逅が、ひとつの世界観をつくっているのは間違いないだろう。

 

「私の『理想の装丁』というものは、必ずしも、私個人の独創的なデザインの上のアイディアを反映しているという意味ではない。それは、ながい間、装丁の仕事をしてきたデザイナアであるならば、当然に行き着くところのぎりぎりのパタアンである。では、それはどういうものなのかと言えば、ただそこには、その書物の著者名と書名があるばかりであるといったようなものである。私が考えている書物の装丁の理想は、そういうものである。––後略」 北園克衛「装丁を感覚する」『朝日出版通信』4号より

 

北園は自己表現を目的としていない。

 

そのことは「行き着くところのぎりぎりのパタアン」が
「その書物の著者名と書名があるばかり」であるという箇所からもよく解る。

 

最高の表現とは自己以外の「価値がある何か」が表現されているということを、北園は確かに知っているのだ。

 

概して芸術はいかに自己を表現するかに執着しやすい。
しかし感動を促す作品は作家の自己や自我とはかけ離れた場所にある。
自我が照らす明かりの先に真理が見えた時に人は感動するのであって、方向性を指し示すだけでは、
そこに見るものは作家の個人的嗜好でしかないと思う。
赤色が好きな画家が赤を多用する作品を制作したとしても、その嗜好には意味はなく、
赤を通してどのような真理が見えてくるかと言うことに価値があるのではないか。

 

そのことをアカデミックに頭で理解しているのではなく、実践から導きだした答えとして身体で理解していることが
北園が現在でも輝いている理由なんじゃないかと感じた。

 

 

亡くなる直前まで発行し続けた機関誌『VOU』。全160号すべてのデザインを北園が手掛けた。

 

同じタイトルでこれだけ違った表情をつくれることにも脱帽してしまう。
今週末まで世田谷美術館で北園の作品をまとまって見れる展覧会を催しています。貴重な機会なので是非。

 

橋本平八と北園克衛展 異色の芸術家兄弟 世田谷美術館
~12月12日

 

図版出典:『橋本平八と北園克衛展』より

 

※この記事は2010年12月に投稿した記事の再掲載です。展示は現在は行っておりません。
過去のデータベースにアクセスできなくなったので一部加筆修正して掲載しています。

 

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当たり前のことかもしれないが、世の中を難しくしている根本的な原因は、
正解や正しさがないってことだなあと最近つくづく感じている。

 

ジェンダーギャップにしろ、SDGsにしろ、人口減少にしろ、ウクライナ戦争にしろ、
フェミニズムにしろ、核兵器にしろ、人種差別にしろ、不倫にしろ、少子高齢化にしろ、
引き籠り問題にしろ、移民政策にしろ、AIの使い方にしろ、全てのことに正解はない。
正解に近い答えはあるかもしれないが、
誰にもこれが正しいですと100%確証を持って宣言することはできない。

 

例えば「人を殺すことはいけないことなのか」というシンプルな問いにしてみても、
一般常識では、いけないことです、ダメですと答えるかもしれないが、
もし難病を抱えていて、病院のベッドのうえで身体を動かすこともできず、
チューブで栄養をおくられて一生を過ごさないといけない状況だったら、また答えも変わってくるだろう。
少なくとも自分だったら誰かに殺してほしいと願うと思う。

 

そういったいっけん白黒つきそうな問いの答えでさえ、グレーの幅のなかにたくさんに存在しているので、
より複雑でわかりにくい問いに関しては、
みんなが納得する答えを出すことはほとんど不可能ではないかと感じてしまう。

 

そして最近は、早急に答えを求め過ぎることで逆に反発や軋轢を生み、
ものごとを複雑化し、可能性を閉ざしてしまっていないだろうか。
SNSの影響か、そのまま放っておいてもいいような物事にも答えを急ぎ過ぎているようにみえる。

 

芸術の分野は昔から割り切れない感情や相反する問題などをよく扱ってきた。
文学や映画の世界では、殺人などのアンモラルなことや不健全さもそのまま描かれる。
それは犯罪や不健全さを肯定しているわけではなく、そういった状況を設定することで、
むしろ真実や大事な価値観を炙り出そうとしているからではと考える。

 

例えば不倫というテーマも文学のなかでよく描かれてきた。

 

そもそもがひとの心の動きは矛盾を孕んでおり、倫理などを超越して好意をもってしまう。
好きになることが許されない状況だとしても
心は自律しているので魅力を感じる存在のほうに、本能的に吸い寄せられていく。

 

ひとを好きになることは極めてナチュラルな心の動きなので止めようがない。
心を動かさないってことは死んでしまうことと同じではないのか、
などと読むひとに問題意識を突き付けるのが文学の役割で、
大事なのはあくまで最終的な判断は受け手側に委ねるところだろう。

 

犯罪に手を染めたり、不倫してしまうひとびとの心のうちを想像し、
状況によっては自分もそうなってしまうかもしれないと考える。
仮定を積み重ねることで、ひとは矛盾し相反する感情を持つ存在だと知ることができる。

 

喫緊にせまる社会問題などはすぐに答えを求められるし、曖昧さは残さないほうがいい場合も多い。
しかしいま決める必要がないことはなるべく後伸ばしにするのは悪いことではないと思うし、
それも成熟した社会の問題解決のひとつなのではないかと考える。

 

もっと本を読み、もっと映画を観るだけでも、だいぶ社会は変わるのかもしれない。

 

和火やってます。

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週末は世田谷美術館で開催されている魯山人展に出掛けた。

 

魯山人のまとまった量の作品を見るのは今回が初めて。

 

以前来たのは北園克衛の時だっただろうか。
この美術館は、建物は好きではないがキュレーションが優れている印象がある。
見れなかったが、過去にも魯山人展をやっていて、
その時は魯山人が目指した器の「本歌」と「写し」を大胆にも並べていた。青山二郎展も良かった。
世田谷区民としてはこういう税の使われ方は大いに嬉しい。

 

作品数は150点くらいあり、有名な作品も混ざっているので魯山人の魅力をじゅうぶん堪能できる。
いまはなき伝説の名店「百味存」の横山さんが、実際に器に盛りつけた写真も展示されていて、
そういうところにもキュレーションの確かさを感じる。

 

魯山人の器は、まず器自体がおいしそうだ。見てるだけなのに触覚的に訴えてくる力が強い。
釉薬と素地とのバランス、有機的な質感、稚拙な絵付も食欲をそそる。
器としては達者な絵よりも、やや下手で隙がある絵の方が唾液の分泌を促すと思う。
これなら盛られた料理はさぞやおいしく見えるだろう。
むろん色感もいい。色彩と味覚のところでも書いたが、料理が上手な人は色使いも上手だ。

 

おそらくこんなにも料理をおいしそうに見せる器をつくれる人は、
古今東西、魯山人をおいて他にはいないだろう。
そういった意味合いにおいては、人間国宝級の陶芸家でも太刀打ちできないと思う。

 

魯山人の器の多くは、星ヶ丘茶寮で実際に使うためにつくられた。
星ヶ丘茶寮というのは、美食家だった魯山人が自分の料理をふるまった料亭のことで
わかりやすい例で言えば『美味しんぼ』における美食倶楽部である。
海原雄山も魯山人をイメージしている。
書家、篆刻家、画家、美食家、料理人など様々な顔を持つ設定もそのまま海原雄山だ。

 

当初は既存の器に料理を盛りつけて供していたが、
だんだんと飽き足らなくなり、自分で作陶を始める。

 

中国の青磁、染め付け、織部、黄瀬戸、志野、丹波、信楽など
とにかくたくさんの種類の器を焼いた。
食だけでなく、陶芸への執着も相当なものだったらしく、
骨董を一万点あまりも蒐集して、その写しをつくった。
時には古窯を発掘し、陶磁器の破片などから制作のヒントを得た。

 

もちろん陶芸家もおいしそうに見えることを考えて作陶するだろうが、
美食家がつくるとなるとやはりレベルが違ってくる。
魯山人は自ら調理場にも立っていたので、素材選びや調理法などにも精通している。
料理のことをすみずみまで知っていたからこそ、その魅力を最大限に引き出すことができた。
一見物足りないような器も、盛り付けて完成と考えると、料理人としての視点が見えてくる。

 

しかし当時はいろいろと批判もあった。
センスはいいが技術力がともなっていないという指摘が一番多かっただろうか。
ひとつの分野でも極めるのが難しい世界なので、
多種多様な器を焼いていたら当然そういった指摘が出てくる。
完成度と言う意味では、確かに批判は的を得ていて、それは魯山人の絵画などにも通じると思う。
絵にも天賦の才があることがわかるが、極めるところまでは行っていないからだ。

 

おそらく料理をメインと考えていたので、そんなことはどうでも良かったのだろう。
あくまで料理が主役でそれ以外は脇役。いや魯山人の場合は準主役か。
最終的に彼の多岐に渡る活動は料理に集約し、星ヶ丘茶寮を主催した。
おいしく食べるための器であり、おいしく食べるための絵画であり、
おいしく食べるための書だったのだ。

 

器や絵画は総合的な完成度という意味では詰めの甘さが残るが、
プロの作品と比べて必ずしも劣るわけではない。
ちょうど安西水丸氏のように、肩の力を抜いて制作していることで醸し出るおおらかさは、
玄人にもちょっと真似するのは難しいと思う。

 

冒頭にも書いたがあまりにも上手過ぎる絵は緊張感を生み、
客はリラックスして食事ができない。もっと言えば唾液の分泌を促さない。

 

学校に行かなかったり、専門的に習わなかった魯山人は、
偉大なアマチュアだと評されることが多いが果たしてそうであろうか。
どういう環境なら客が楽しんで食事ができるのか、魯山人ほど考えた人はいないと思う。

 

そのことはミシュランで星をとっている料理人でも器を焼かない、
絵を描かないということからも推して知るべしである。

 

※この記事は2014年10月に投稿した記事の再掲載です。
過去のデータベースにアクセスできなくなったので一部加筆修正して掲載しています。

 

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ウェブやSNSなどで、ときにコメントが一極集中して投稿される様子を炎上と呼んでいる。
一般的にはネガティブな言葉として使われることが多いだろう

 

もちろん批判が大半の炎上もあるが、賛否が50/50くらいの場合は、実は有意義な問題提起がされている可能性が高い。
どちらかが優位でなく、肯定的意見と否定的意見が同じ程度入り混じる状態は、
本質をついた重要な議論が行われていることの証ではないかと考えるからだ。

 

のちに歴史的な意味を持つ芸術作品が現れるときも同じような現象が起こる。

 

たとえば1863年に画家のエドゥアール・マネが『草上の昼食』で女性のヌードを描いたが、
キリスト教的価値観では女性のヌードはタブー視されていた背景があったため、賛否が巻き起こった。
もちろん西洋絵画でマネ以前にもヌードは描かれていたが、
神話などに登場する神々などの実在しないモデルのみというエクスキューズ付きで、
リアルな対象として描いたのはマネが初めてだった。
女性のヌードというテーマはある程度答えが出ているので、
いまとなっては問題視されないだろうが、当時は炎上に近い案件だったようだ。

 

エポックメイキングな作品は、往々にしてひとびとの概念の外にあり、
ある種タブー視されているモノゴトも含んでいるので、諸手を挙げて賛成とはならず、
どうしても反発する勢力が出てきてしまう。

 

そういった問題提起で大事なのは、
好きでも嫌いでもないけど、まあいいんじゃないかななどという生ぬるい反応ではなく、
「素晴らしい作品だ」「こんなものは芸術ではない」と世間を二分するくらいのコンフリクトを生むこと。
そもそも話題にならないのは重要なイシューではない。

 

ピカソのキュビズムやウォーホルのシルクスクリーンの作品なども、同じように芸術論争を呼んだし、
現代ではダミアン・ハーストやアイ・ウェイウェイ、
日本だと会田誠らは二極化しがちなテーマを積極的に扱ってるように見える。

 

表現の不自由展もだいぶ物議を醸したが、補助金の受給や芸術と政治の関係など、いろいろと考えるいい機会になった。
単純に美しく心地いいものだけが芸術だと考えていたひとにとっても、
法定の場で真逆の結論が出たことによって、それまでの芸術への理解が変わったのではないかと想像する。
そういった意味ではおおきな問題提起だったと思うし、
おそらく100年後くらいには、なんであんなことで騒いでいたのだろうと意識が変わっているのではないだろうか。

 

ほとんどの大事なものごとは炎上から始まるのかもしれない。

 

 

※映画や本をアマゾンなどで探すときにも、上記のように評が割れているものを目安にしています。

 

和火やってます。

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