すいせい

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デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです

後編はこちら

 

中国杭州にて

目の前にある建物は日本人の感覚からすると、過剰なくらいの模様に埋め尽くされている。
柱や壁や扉はもちろんのこと椅子や机やカーテン、
よく見るとドアと壁の隙間をつなぐ細い部材にも微細な模様が入っている。
おおよそ模様を入れることに関して中国人はとても情熱的に取り組んでいるのだろう。

 

単に空白を埋めるというだけではない。
いっけん模様がないかと思いきや、目を近づけて見るとデリケートな細工が施されていたりして
鋭い感性と高い技術力が働いていることが分かる。
模様で埋め尽くされていると表現すると、日本人ならだいたい過剰さや無秩序を思い浮かべるだろうけど
繊細さという価値観も明確に感じられ心地よい。

 

しかし心地よさとは別に、ある種の強迫観念みたいなものも感じてしまう。
模様がない状態を放っておけない、空白恐怖症に近いものだろうか。

 

それはすなわち中国において模様の不在とは
コミュニケーションの不在も意味するからかもしれない。

 

かねてより模様は権威を表すことに利用されてきた。

 

誰かが権威を持っているということを理屈でなく表現するには
模様がとても便利で有効であったからだ。

 

中国の王に会うために、はるばるヨーロッパからシルクロードを伝って来た客人が
模様でびっしりと埋め尽くされた謁見の間に通される。
高密度の模様の玉座に座っている王を見ると、言語や文化的背景が異なっていても
権力を持っている事は直感的にわかると思う。

 

中国が模様で埋め尽くす背景には、多民族国家(※)であることが関係しているのだろう。
異なる文化的背景を持つ民族に対してアプローチするには
外国人でも理解できるような確実なコミュニケーションが求められるからだ。
それは空白や余白という曖昧さを排し、わずかな隙間さえも模様で埋めると言うことを意味する。
多民族国家において曖昧さは決して美徳ではなく、常にある種の危機感をもって回避すべき事態なのだ。
もちろん曖昧であることが有事に繋がることも充分考慮に入れなければいけない。

 

より正確に表現すれば、中国人は模様が好きというよりは、空白が嫌いなのだろうし、
脅迫観念を感じるのは「模様」にというよりは
「生き延びる為に全力で空白を埋めようとする執念」の方にかもしれない。

 

一方日本はどうだろうか。

 

おそらく中国人ほど模様に対して熱心ではないだろう。
それは非多民族国家ということが関係しているのか?

 

写真
上 杭州にある薬局内部
中 同建物吹き抜け部分2階
下 同建物吹き抜け部分3階

 

※この記事は2011年に投稿した記事の再掲載です。

過去のデータベースにアクセスできなくなったので一部加筆修正して掲載しています。

 

 

 

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デザイン職あるいはクリエイティブにまつわる職にとって大事なことはたくさんあると思われるが、
表題の「幼児性」はとても重要な意味を持つのではないかと、最近考えている。

 

幼児性とは何か? 簡単に言うと、自分の心に素直に従うことだと思う。
いや、ただの心ではなく少年のような心という注釈付きだ。

 

人は年齢を重ねるにつれて、鈍感になっていく(と考えている)。
そのことを「おじさん化」というと、性差別と指摘されそうだが、実際に男のほうがそういった傾向は顕著ではないだろうか。

 

義務教育を終えて社会人となり、30を過ぎるころにはだいたいおじさん化が始まる。
もしかしたらそれよりも前から始まっているかもしれないが
おおよそ社会に慣れてきたころから感覚が鈍麻していくと想像している。
(たぶん自分はなんでもわかっているという過信が、鈍感でもいいという甘えを生むのだろう←自戒を込めて)

 

服装や髪型に気を使わなくなり、世の潮流からも少しずつ距離が出てくる。
新しい音楽を探すこともなくなり、美術館や映画館などからも足が遠のき、
思考や好みが固定化して、動きがなくなる。
ときどき世の中とのギャップを感じることはあるが、まあ大丈夫と放っておくと、
もう後戻りできない状態になってしまっていることに、いつの日か気付く。
これが自分が考えるおじさん化のおおまかなイメージだ。

 

ひとは幼稚園や小学校の低学年くらいまで鋭敏な感覚を持っている。
子供は五感が全方位に開いているので、あらゆることに興味があり、
放っておいても、絵を描くし、歌を口ずさみ、音楽に合わせて踊る。
本来的にひとはみずみずしい感受性をもっており、芸術系の活動も好きなはずなのに、
だんだんと得意不得意がわかってきて、あるいは成績などの社会的評価をつけられることで、自ら心の動きを封じ込めてしまう。
もちろん素質を見極めることは大事なことだし、分別がつかないと生きてはいけないと思うけれども、
女性が男性と比べて、大人になってもやわらかい心を有している事実は、やはり一考の価値があるだろう。
得意不得意は把握しつつも、感性までは閉ざさない、その辺のバランスはなかなか難しい。

 

クリエイティブ系に進んだひとは、得意ということもあるので、子供のころとギャップがなく
感性を維持しているひとが多いと思う。

 

幼児性とは、そういった鋭敏な感覚を信じて、子供っぽいかなとか、馬鹿馬鹿しいかなという疑念が湧いてきたとしても、
素直に躊躇なく表現していくことだと考えている。

 

例えば街中をピンクのペンキで塗ったら面白いじゃないかとか、道を歩いているときに地球の重力がなくなってしまったらどうしようとか、
池の水をぜんぶ抜いてみたらどうなるんだろうとか(そういうテレビ番組もありましたね)、
常識人には馬鹿馬鹿しいと一蹴される思い付きかもしれないが、
そういったアイディアの種がクリエイティブのダイナミズムを生むのではないだろうか。

 

子供のころの感性は一生の宝だなあ、忘れないようにしないとなあと最近つくづく思っている。

 

 

 

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出張@那須

2024.05.28

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善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
しかるを世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をやと。

——親鸞『歎異抄』

 

ひとはなぜ悪に惹かれるのか。
悪の美学ではないが「善」とされるものにはない魅力があるように思える。

 

以前ちょいワルのことについて投稿したことがあったが
最近その考えをアップデートしているので書いてみたい。

 

該当の記事はこちら

 

このときは、マイケル・ジャクソンのアルバムを例に出し、
良いと悪いの間を揺らぐことに意味があるという内容だった。

 

いま現在は「悪」という概念自体が、実は悪ではない場合があるのではないかと考えている。

 

そもそも善悪という視点自体が、曖昧で掴みどころがないものではないだろうか。
道徳や規範や常識などに縛られることも多く、
時代や世間の空気、あるいは政治性などにも影響を受けてしまいやすい。

 

つまりひとが惹きつけられてしまう悪は、一時的に悪のラベルが貼られているが、
実は本質的で重要な意味を持ち、世間が変わり、価値観が変わると
その真価が発揮されるようになるものではないかと、いまのところは考えている。
世間一般には悪とされていたとしても、本能的にそういったことを嗅ぎ分けているために、
惹かれてしまうのではないだろうか。

 

ヤクザという存在を肯定するわけではないが、そういったジャンルの映画を楽しむのも、
暴力性などが違ったかたちで現れると魅力的であるからだろうと思う。
反社会的であったり、モラルに反する暴力性は映画のなかだけでとどめておきたいが、
現実社会では例えば格闘技というジャンルであれば、その発露がうまくいくかもしれない。
あるいは身体をダイナミックに動かすスポーツも、選択肢に入るかもしれない。

 

詐欺行為がフィクションで成立するのも、あざやかにひとを騙す、騙されることに面白さがあるからで、
たとえばマジック(手品)などはその「騙す」部分だけを、純粋なエンターテイメントに昇華している。

 

マイケルのような音楽や芸能の分野などは、言語化できない魅力の総本山である。
暴力性はもちろん、性的なもの、狡猾さ、横柄さ、自己顕示欲などもポジティブに転換できるし
逆に言うとそういった要素がないと惹きつけられない気がする。

 

冒頭は「悪人こそ救われる」で有名な親鸞の『悪人正機』の言葉であるが、
ここでいう悪人とはすべての人類のことを指し、ひとはそもそも善悪がわからないという。
煩悩を持ち、まだらのように善悪が入り混じる人間はすべて悪人である、とは強い言葉であるが、
反面、原罪を喝破している意味で優しい言葉でもある。

 

いつの時代もひとが悪に魅了されるのは、
分つ難く煩悩や原罪から切り離すことができない宿命を背負っているからだろう。
その足元には常識を超えた何かが潜んでいるのではないかと想像する。

 

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街中にはポスターなどいろんなグラフィックデザインが溢れていますが
この投稿ではプロではないと思われる人達によるデザインを
民藝的グラフィックと命名し、勝手に選出させていただきました。
狙っていない良さ、無自覚さが最大の魅力です。

 

第一回はこちら。

 

上は明大前のフォトコンテストのグラフィック。
「明」の上に文字を重ねようとはなかなか思わないって、
その考えがデザイナーの固定観念に陥っていることを痛感させられました。
やはり発想はこのように自由でないといけないですね。
色のチョイスもいいですし、承認印を真ん中寄りに押されても
びくともしないデザインの堅牢さも見倣わないとと思いました。

 

初午(はつうま)とは、2月の最初の「午の日」をさし、
稲荷神のお祭りが行われる日とのこと。
黄色バックに青の文字、イラストが映えています。
素朴ながらも神秘的な雰囲気なイラストにじわっとした味わいがあります。

 

旧山手通り沿いにある材木場。
シンプルに明朝体だけで組まれた社名がいいですね。
これはなんといっても宇田川木材という言葉の美しさにつきます。
文字並び、音の響きなど、それらが喚起するイメージが豊かなので、
もし自分にデザインを依頼されたとしても極力いじりたくない。
でも明朝体を打っただけだと手を抜いていると思われて、
プレゼンは通らないだろうなあ。

 

宿命的にデザイナーは水平垂直に合わせるのが好き、あるいは45度。
こういった矢印の傾きも無意識に水平に合わせてしまいがちですが
ぎりぎりの傾きに面白さがあることを、再認識しました。
こちらも固定観念から解き放ってくれるデザインです。

 

無骨でアイコニックなイラストに魅せられました。
by 服部一成と言われても信じてしまいそう。
ぜったい理解して描いてないだろ、とつっこみたくなる手の形に魅了されます。
しかし一見無骨に見えながら、スミ100%ではなく、
ダークグレーにしているところに高度なテクニックを感じ、
もしかしたら本当に服部一成?なのか。

 

鎌倉の有名なカフェのコーヒー袋。
カフェのデザインは自分もやったことがありますが
これくらいがちょうど良いのではと、思わされてしまう説得力があります。
デザイナーの手が入ったものは、ときに息苦しさを生んでしまうので
カフェのデザインなどは、手書きくらいがちょうどいいのかもしれません。
ただ逆に手書きが増えすぎると、バランスが悪くなるのが難しいところ。

 

補色の鮮やかさが食欲をそそります。
「麻婆」「肉」「玉」など所々、色が変わっているのが効いてますが
なんといってもこのグラフィックは達筆さによって成立していると思います。
筆文字 ver.が見てみたい。

 

いわゆる民藝とは違うかもしれないですが
果物が入ってそうな容器にゼリーを入れるそのズラしかたが
秀逸だなと思いました。

以上民藝的グラフィック選でした。

 

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