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デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです
デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです
普段はデザインなどに関連することばかり書いているので
今回はあまり関係ない、やや夢見たいな話を記事にしてみたいと思います。
これは昔から考えている世の中がちょっと良くなるんじゃないかというプロジェクト。
とてもハードルが高そうだけれど、実現すれば社会が混ざることで、
人々の相互的な理解度が増し、世の中が上手く廻っていくきっかけになるのではないだろうか。
ちなみに経済効果とかスキルアップとか直接的なメリットは皆無です。
その内容とは、自分がいま就いている職種からなるべく遠いと考えられる仕事を義務的に経験させられるということ。
半年でもいいし、短ければ3ヶ月くらいでもいいけど、ある程度長い方が効果が出そう。
以下概要。
人々は毎日決まった仕事に従事している。それが日常である。
料理人ならば厨房で食材と格闘しているだろうし、プログラマーならモニターをにらみコードを書いている。
学校の先生なら生徒相手に教えているし、農家ならば畑に種を蒔いているだろう。
とてもいいことだ。なにも問題はない。
専門性を高めるのは大事なことだし、社会にはそういう人々が増える方がメリットがあるのだけれども、
限られた仕事をするだけが世の中にとって本当にいいことなのだろうか。
なぜそう考えるかというと、現代社会で働く人はとかくルーティンに陥りやすく、
世の中の仕組みを知る機会が減っていると思うから。
働き始めて間もない頃は、目に入るものはなんでも新しいので、
乾ききったスポンジが吸収するようにさまざまな物事を経験していく。
しかしその吸収も一定のラインを越えると飽和して、止まってしまう。
インプットがなくなった状態でも、本人としては実務経験があるので、
社会のことをよく知った気になっているかもしれないが、
知っているのは会社内だけだったり、専門の範囲に限定されることが多い。
ひとたび外に出ると常識が通じなかったり、初めて知ることも多いのではないだろうか。
(自戒を込めたプロジェクトなんです)
社会のことを知らないと、他の人がどういう日々をおくっているのか想像する機会が失われてしまう。
例えば弁護士の、漁師の、保育園の先生の、自動車のセールスマンの、エンジニアの、
国会議員の、パイロットの、映画監督の、ジャーナリストの日常がどういうものなのか僕は知らない。
知らないと想像しづらいので、他の人々への理解や優しさを持ちにくくなると思う。
逆にどのようなことが大変なのかと知っていると、ある程度は寛容になれるだろう。
まあ簡単に言ってしまえば、理解や優しさがない人の典型が酒場で説教をはじめるオヤジであり、
そういう人々が少ない方がいい社会だと思っているわけだ。
もっと言えば、ギリシャ哲学的な「自分が世の中のことをどれだけ知らないのか自分で分かっている=無知の知」
のようなものを啓蒙するプロジェクトとも言えるかもしれない。
具体的には、働く場所は変わっても給料は変わらず、もともとの額が本来の職場から支払われる。
医者だったり、パイロットだったりと専門的過ぎてまったく関われない分野もあるだろうから
そういう場合はアシスタントとしてつけてもらう。
タイミングが悪く、すぐに職場を離れられない場合は猶予期間が考慮される。
あるいは2つの仕事の掛け持ち制でもいいかも知れない。その場合は働いた時間の合計でカウントする。
公務員も民間で働ければ一番良いけれど、不可能ならば公務員の中で交代する。
(民間人も公務員を経験できるといいですね)
難しいのは僕みたいに会社から給料が支給されない自営やフリーランスのケース。
その場合はある程度税金を使わないとできないかもしれないが、とりえず着手しやすそうな会社員からスタートして様子を見る。
最初人々は戸惑い、不平不満を述べ、社会は混乱すると思われる。
しかしロングスパンで見てみれば絶対にいい方向に進むと思う。
やや大げさに言えば、プロジェクトを通して得られた「想像する機会」は、社会的な相互理解を助長するだけでなく、
人種差別やテロなども抑止することができるのではないだろうか。
同じように、義務的に役割を与えられる裁判員制度が導入されているのも
「想像する機会」が足りていないと人々が潜在的に思っているからなのかもしれない。
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子供の頃、苦手だったものに海苔巻きがある。
いや、正確に言うと、鉄火とかキュウリとか単体の具は大丈夫だったのだが、
桜でんぶやら卵焼きやら干ぴょうやらが混在する太巻き寿司が苦手だった。
お菓子のように甘ったるいことに加えて、でんぶのざらざらした舌触りにも違和感があったし、
蛍光色な断面も食欲をそそらなかった。
甘過ぎるし、派手過ぎないか?アレ、と思っていた。
いまになって思えば、寿司という文化自体、自分が育った熊本では進歩的でなかった。
そもそもあまり美味しいと思ったことがなく、なぜ世間で寿司という存在が
こんなにもありがたがられてるのか理解できなかった。
認識を改めたのは上京後にちゃんとした寿司屋に通うようになってからである。
よく言われるように、江戸前の握り寿司とは、シャリに新鮮なネタを乗せたものではない。
新鮮であることは大前提として、酢飯に合うようにネタを繊細に調節し、シャリの上に乗せたものが江戸前寿司だ。
なので江戸前の場合、なにも手を掛けていないと思えるネタであっても、ほんのわずかに火を通していたり、
塩を振っていたり、細やかに調整されている。
あるいはもっと大胆に、穴子みたいに蒸して焼き、甘辛いツメをつけることもあるし、
煮蛤のように醤油で煮込む場合もある。
握れないものは握らない、と頑固な親方が突っぱねるのは、
物理的に握れないということでなく、どう調整してもシャリには合わないということなのだ。
九州で食べていた寿司は、ネタの鮮度は良かったかもしれないが
そういった仕事はあまりされておらず、寿司としての完成度はいまひとつだった。
私は新鮮な海の幸が獲れる地方の港町に行っても、寿司は美味しくないから食べない。
魚介類はもっぱら刺身で楽しむ、と馴染みの江戸前の寿司屋の大将は言っていた。
確かに現在でも熊本で美味しい握り寿司を食べることはなかなか難しい。
話が脱線したが、とにかく子供の頃太巻き寿司が苦手だった。
それがなぜかとつらつらと考えてみると、味よりも様式の方がまさっていたからではないだろうか。
寿司は基本的にハレの食べ物だ。
特に太巻き寿司やちらし寿司は、季節のおめでたい行事と結びついているので
祝賀の雰囲気を演出するために、色とりどりな趣向を凝らし、食卓に華を添えてきた。
太巻き寿司の場合は、断面の面白さが人々の創作意欲を刺激するだろう。
上記の写真のようにやや過剰とも言える太巻き寿司もつくられている。
これらは房総半島でつくられる「太巻き祭りずし」というもので、名称からもわかるようにずばりハレのど真ん中だ。
つまり一目でおめでたいとわかることが太巻き寿司の役割=様式であり、おおきなアイデンティティなのだ。
やたらと甘い味付けも同様の理由だろう。
かつて砂糖は精製が難しかったため日々の料理に使うことはなかなかできなかった。
その裏返しとして砂糖がたくさん使える食べ物はハレを表すことになる。
華やかな西洋の食べ物が日常にあふれ、甘いものも存分に味わえる時代に育った子供にとって
形骸化してしまった様式にはあまり心惹かれなかったのだと思う。
加えて苦手だったのにはもうひとつ大きな理由がある。
それは様式の中にひそむ呪術的な日本の姿だ。
太巻きごときに、いよいよ話が大袈裟になってきたが気にせず進んでいく。
小さい頃、太巻き寿司にかぶりつくたびに、異界へと連れて行かれてしまうような居心地の悪さを感じていた。
それは中心に近づくにつれて、濃厚になり、しだいに呪術性さえおびていたように思う。
いまになって考えてみると、そのような体験は決して珍しいことではない。
大人になっても経験する一般的な感覚だろう。例えば自分の場合は、参道にずっと続く夏祭りの提灯を見たとき、
古い町を歩いていてどこかの開け放たれた窓から浪曲が聞こえてきたとき、
あるいは鈴木清順のいくつかの映画を観たときなどにも、同じこころもちになることがある。
それはいにしえの文化が持つ呪術の力が、こころに働きかけて、過去の世界へといざなっていくからではないだろうか。
言い方を変えると自分の中に蓄積された記憶がフラッシュバックする現象だと思う。
一時的にでもこころを捉えて動かなくしてしまうのは呪術の力だ。
では太巻き寿司に潜むものとは一体どんなものだろう。
思うにそれは、キッチュだったりサイケデリックだったりする日本特有の外連味ではないだろうか。
日本文化にはそういった派手でエグい側面があるからだ。
いろいろな捉え方があるけれども、一番わかりやすい例で言えば、グラフィックデザイナー横尾忠則の初期のスタイルがそれに該当すると思う。
わざと俗っぽいテーマを扱い、原色や蛍光色を多用し表現される演劇のポスターは、
見ていて気持ちが良いというよりは、むしろ居心地の悪さを感じてしまう。
しかしこの居心地の悪さが問題提起となり、一連のポスターを芸術の域まで高めている。
ビジュアルメインの話ではあるが、こういう形でわかりやすく表現されると
日本文化には毒っぽい領域があることが認識できると思うし、太巻き寿司であっても無垢な子供にとってはけっこう刺激が強かったのだ。
大人になったいまでは、太巻き寿司はむしろ好きな食べ物の部類に入る。
それは清濁併せ呑むように成長したというよりは、太巻き寿司の方が健全化しているからだと思う。
外連味がなくなり、呪術力が薄まっているのだ。
甘さも控えめで、バランスが取れていてとても美味しい。
すっかりいまではおめでたさを享受できるようになったが、子供のころの自分には鬼門だった。
画像出典 上から3枚目まで:千葉のお米ホームページ
画像出典 上から4枚目:『ヤクザ映画 戦後日本映画のひとつの流れ』横尾忠則 1967
画像出典 上から5枚目:『由井正雪 劇団状況劇場』横尾忠則 1968{{/小字}}
画像出典 上から6枚目:『責場』(部分)横尾忠則 1968
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