デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです
空白恐怖症の中国、寿司デザインの日本 後編
前編はこちら
寿司は極めて日本的な食べ物だ。
ネタとシャリ両方の素材の良さを存分に引き出し、余計な要素は加えずに楽しむそのスタイルを
日本的と称してもおそらく多くの日本人は違和感を感じないだろう。
現代では日本を象徴する食べ物として世界中に広まり、
武士や歌舞伎などと同じように日本の精神性を表すコンセプトモデルとして
認識されているようにも思える。
しかし調べてみると意外にも握り寿司の歴史は浅く、江戸時代後期くらいの文献に登場していることから
180年、長くとも200年くらいの歴史しかないと考えるのが適当だ。
(押し寿司やなれ鮨は古代から保存食としてつくられていた)
根っからの伝統食というわけではないが、さも日本を代表する食べ物と認識される背景には
日本的思考と寿司のコンセプトがぴったりと合致していることがあるからかもしれない。
日本人は豊かな自然の中でデリケートな感性を育んできた。
自然が豊かということは環境に多様性があり、
滑らかなグラデーションで生態系が出来上がっているということを意味する。
地面を構成する要素だけを比べてみても
砂漠気候と温帯湿潤気候とでは情報量がだいぶ違う。
情報量が多いとそのぶん情報に対するリテラシーを求められ(自然リテラシー?)、
即して感性も発達していく。
自然が繊細だとそれを映す鏡も繊細な像を結ぶように、日本人はとても繊細な感性を持つようになった。
デリケートな感性のもとでは素材に内在する自然を尊び、
余計なものを加えることを潔しとしない「引き算の美学」が生まれると想像する。
模様も含めたあらゆる要素をダウンサイズするのは
ノイズに紛れていた自然を感じたいという欲求の現れではないだろうか。
しばしば桂離宮に代表される数寄屋建築が、西洋のモダニズム建築と比較されその類似性を指摘される。
実際アウトプットは似ているかもしれないが、モダニズムが機能主義的、合理主義的側面を離れられないことから
両者の目的はだいぶ異なるのではないかと思っている。
Less is moreと言ったのは建築家のミース・ファン・デル・ローエだが
かかる引き算の美学のもとで必要最小限まで無駄を削ぎ落とし生まれるミニマルな強さが、
モダニズムの魅力であり目的だとすると、日本のそれは寿司的コンセプトと同一の
自然を感じたいという意識の方向性でないかと考えるからだ。
近代以降モダニズムが洋の東西を問わず流行し、模様を含めたあらゆるエレメントを捨象することになった。
しかし日本でも起こったモダニズムは同じ様に見えて本質が違うのではないか、
遥か以前から模様を絶えず捨てて来たことで日本文化は成立しているのではないか、
日本人の最も優れた感性とは自然を感じる繊細さにあるのではないか、
そのようなことを帰国後の寿司屋のカウンターでぼんやりと考えていた。
写真
上 歌川広重によって描かれた寿司
下 桂離宮
※この記事は2011年に投稿した記事の再掲載です。
過去のデータベースにアクセスできなくなったので一部加筆修正して掲載しています。
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空白恐怖症の中国、寿司デザインの日本 前編
後編はこちら
中国杭州にて
目の前にある建物は日本人の感覚からすると、過剰なくらいの模様に埋め尽くされている。
柱や壁や扉はもちろんのこと椅子や机やカーテン、
よく見るとドアと壁の隙間をつなぐ細い部材にも微細な模様が入っている。
おおよそ模様を入れることに関して中国人はとても情熱的に取り組んでいるのだろう。
単に空白を埋めるというだけではない。
いっけん模様がないかと思いきや、目を近づけて見るとデリケートな細工が施されていたりして
鋭い感性と高い技術力が働いていることが分かる。
模様で埋め尽くされていると表現すると、日本人ならだいたい過剰さや無秩序を思い浮かべるだろうけど
繊細さという価値観も明確に感じられ心地よい。
しかし心地よさとは別に、ある種の強迫観念みたいなものも感じてしまう。
模様がない状態を放っておけない、空白恐怖症に近いものだろうか。
それはすなわち中国において模様の不在とは
コミュニケーションの不在も意味するからかもしれない。
かねてより模様は権威を表すことに利用されてきた。
誰かが権威を持っているということを理屈でなく表現するには
模様がとても便利で有効であったからだ。
中国の王に会うために、はるばるヨーロッパからシルクロードを伝って来た客人が
模様でびっしりと埋め尽くされた謁見の間に通される。
高密度の模様の玉座に座っている王を見ると、言語や文化的背景が異なっていても
権力を持っている事は直感的にわかると思う。
中国が模様で埋め尽くす背景には、多民族国家(※)であることが関係しているのだろう。
異なる文化的背景を持つ民族に対してアプローチするには
外国人でも理解できるような確実なコミュニケーションが求められるからだ。
それは空白や余白という曖昧さを排し、わずかな隙間さえも模様で埋めると言うことを意味する。
多民族国家において曖昧さは決して美徳ではなく、常にある種の危機感をもって回避すべき事態なのだ。
もちろん曖昧であることが有事に繋がることも充分考慮に入れなければいけない。
より正確に表現すれば、中国人は模様が好きというよりは、空白が嫌いなのだろうし、
脅迫観念を感じるのは「模様」にというよりは
「生き延びる為に全力で空白を埋めようとする執念」の方にかもしれない。
一方日本はどうだろうか。
おそらく中国人ほど模様に対して熱心ではないだろう。
それは非多民族国家ということが関係しているのか?
写真
上 杭州にある薬局内部
中 同建物吹き抜け部分2階
下 同建物吹き抜け部分3階
※この記事は2011年に投稿した記事の再掲載です。
過去のデータベースにアクセスできなくなったので一部加筆修正して掲載しています。
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幼児性を忘れないようにしよう
デザイン職あるいはクリエイティブにまつわる職にとって大事なことはたくさんあると思われるが、
表題の「幼児性」はとても重要な意味を持つのではないかと、最近考えている。
幼児性とは何か? 簡単に言うと、自分の心に素直に従うことだと思う。
いや、ただの心ではなく少年のような心という注釈付きだ。
人は年齢を重ねるにつれて、鈍感になっていく(と考えている)。
そのことを「おじさん化」というと、性差別と指摘されそうだが、実際に男のほうがそういった傾向は顕著ではないだろうか。
義務教育を終えて社会人となり、30を過ぎるころにはだいたいおじさん化が始まる。
もしかしたらそれよりも前から始まっているかもしれないが
おおよそ社会に慣れてきたころから感覚が鈍麻していくと想像している。
(たぶん自分はなんでもわかっているという過信が、鈍感でもいいという甘えを生むのだろう←自戒を込めて)
服装や髪型に気を使わなくなり、世の潮流からも少しずつ距離が出てくる。
新しい音楽を探すこともなくなり、美術館や映画館などからも足が遠のき、
思考や好みが固定化して、動きがなくなる。
ときどき世の中とのギャップを感じることはあるが、まあ大丈夫と放っておくと、
もう後戻りできない状態になってしまっていることに、いつの日か気付く。
これが自分が考えるおじさん化のおおまかなイメージだ。
ひとは幼稚園や小学校の低学年くらいまで鋭敏な感覚を持っている。
子供は五感が全方位に開いているので、あらゆることに興味があり、
放っておいても、絵を描くし、歌を口ずさみ、音楽に合わせて踊る。
本来的にひとはみずみずしい感受性をもっており、芸術系の活動も好きなはずなのに、
だんだんと得意不得意がわかってきて、あるいは成績などの社会的評価をつけられることで、自ら心の動きを封じ込めてしまう。
もちろん素質を見極めることは大事なことだし、分別がつかないと生きてはいけないと思うけれども、
女性が男性と比べて、大人になってもやわらかい心を有している事実は、やはり一考の価値があるだろう。
得意不得意は把握しつつも、感性までは閉ざさない、その辺のバランスはなかなか難しい。
クリエイティブ系に進んだひとは、得意ということもあるので、子供のころとギャップがなく
感性を維持しているひとが多いと思う。
幼児性とは、そういった鋭敏な感覚を信じて、子供っぽいかなとか、馬鹿馬鹿しいかなという疑念が湧いてきたとしても、
素直に躊躇なく表現していくことだと考えている。
例えば街中をピンクのペンキで塗ったら面白いじゃないかとか、道を歩いているときに地球の重力がなくなってしまったらどうしようとか、
池の水をぜんぶ抜いてみたらどうなるんだろうとか(そういうテレビ番組もありましたね)、
常識人には馬鹿馬鹿しいと一蹴される思い付きかもしれないが、
そういったアイディアの種がクリエイティブのダイナミズムを生むのではないだろうか。
子供のころの感性は一生の宝だなあ、忘れないようにしないとなあと最近つくづく思っている。
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出張@那須
悪と善のゆらぎ(アップデート版)
善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
しかるを世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をやと。——親鸞『歎異抄』
ひとはなぜ悪に惹かれるのか。
悪の美学ではないが「善」とされるものにはない魅力があるように思える。
以前ちょいワルのことについて投稿したことがあったが
最近その考えをアップデートしているので書いてみたい。
該当の記事はこちら。
このときは、マイケル・ジャクソンのアルバムを例に出し、
良いと悪いの間を揺らぐことに意味があるという内容だった。
いま現在は「悪」という概念自体が、実は悪ではない場合があるのではないかと考えている。
そもそも善悪という視点自体が、曖昧で掴みどころがないものではないだろうか。
道徳や規範や常識などに縛られることも多く、
時代や世間の空気、あるいは政治性などにも影響を受けてしまいやすい。
つまりひとが惹きつけられてしまう悪は、一時的に悪のラベルが貼られているが、
実は本質的で重要な意味を持ち、世間が変わり、価値観が変わると
その真価が発揮されるようになるものではないかと、いまのところは考えている。
世間一般には悪とされていたとしても、本能的にそういったことを嗅ぎ分けているために、
惹かれてしまうのではないだろうか。
ヤクザという存在を肯定するわけではないが、そういったジャンルの映画を楽しむのも、
暴力性などが違ったかたちで現れると魅力的であるからだろうと思う。
反社会的であったり、モラルに反する暴力性は映画のなかだけでとどめておきたいが、
現実社会では例えば格闘技というジャンルであれば、その発露がうまくいくかもしれない。
あるいは身体をダイナミックに動かすスポーツも、選択肢に入るかもしれない。
詐欺行為がフィクションで成立するのも、あざやかにひとを騙す、騙されることに面白さがあるからで、
たとえばマジック(手品)などはその「騙す」部分だけを、純粋なエンターテイメントに昇華している。
マイケルのような音楽や芸能の分野などは、言語化できない魅力の総本山である。
暴力性はもちろん、性的なもの、狡猾さ、横柄さ、自己顕示欲などもポジティブに転換できるし
逆に言うとそういった要素がないと惹きつけられない気がする。
冒頭は「悪人こそ救われる」で有名な親鸞の『悪人正機』の言葉であるが、
ここでいう悪人とはすべての人類のことを指し、ひとはそもそも善悪がわからないという。
煩悩を持ち、まだらのように善悪が入り混じる人間はすべて悪人である、とは強い言葉であるが、
反面、原罪を喝破している意味で優しい言葉でもある。
いつの時代もひとが悪に魅了されるのは、
分つ難く煩悩や原罪から切り離すことができない宿命を背負っているからだろう。
その足元には常識を超えた何かが潜んでいるのではないかと想像する。
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